第63回 ロールスロイスの登場が、カサ・ミラの柱を1本無くさせた

ガウディは“オリジナル性は奇異を求めることではなく日常の事を改善することにある。”
と言っている。 ではこの日常性の中からガウディは何を求めてカサ・ミラの計画をしていたのだろうか。理想的な居住空間か、それと形はどんな関係があるのかは後に説明する。

カサ・ミラは、当時の職人達が住めるような住宅ではない。少なくともその家賃だけでも数倍の稼ぎが無ければ無理だろうから、そうなると事業家達のしかも高給取りの賃貸マンションといったところだろうか。
こんなエピソードがあった。この建物の借家人の一人、工場主のフェリウ氏が所有していた大きなロールスロイスの地下駐車場へのアクセスに問題がでた。
車が大きすぎて、斜路にある途中の柱一本を削除しなくてはならないということになった。そこでガウディの協力者・建築家ホセ・カナレタが構造計算のやり直しを強いられたとも言われている。
ところがこのエピソードがいつ頃のものかははっきりしていない。

新築計画段階でしかも地下を掘削して柱を立てる前後とすれば、1905年6月9日に事業家であったホセ・グアルディオラの妻ロサ・セヒモーンが事業家アントニオ・フェレール・ビダールから地下一階地上三階の家を購入し、1905年9月13日に解体申請をしていることから、ここで建築許可申請までの約5ヶ月の間に新築の計画が進められたことが考えられる。
カサ・ミラの建築に当たっては、まず既存の家の半分だけを解体して地下4mまで掘り下げ、更に柱の部分は50cmの穴を掘りモンジュイックの砂利とコンクリートと石灰モルタルを半々という配合で基礎にしたという。そして既存の残り半分は工事現場倉庫とした。
この工事で当時、大学の材料力学を教えていたハイメ・バイヨ教授は“地盤は圧縮された粘土層になっているので心配ない”と裏付けをしていた。
その地下階を検討している時期、もしくは地下のパティオ部分の構造体ができかけている時期、同時にロールス・ロイスの車が世に出はじめた時期となる。

ロールスロイスが“世界でもっとも優れた車”というスローガンでマンチェスターに会社を設立したのが1904年だとされている。 とすれば少なくとも翌年に、フェリウが購入したとしても発注から製造に少なくとも当時のことだから半年の期間を考えると丁度1906年となる。
とすれば建築許可申請が1906年2月2日に提出していることからも合わせて同じような時期にその地下の問題が起きたのではないかと推測できる。
通常、建築許可申請が認められてから新築工事が始められる。よって許可が通常1ヶ月前後かかるとすると3月に許可が下りているとすれば地下階工事が3月から6月ということになる。
その間にこの新築工事の基礎部分での斜路の柱削除問題が起きたのだろうと推定できる。

ガウディは、図面よりも模型中心にしていることは10分の1模型が施工中に地下に設置されていたことから知られている。
しかもその図面を描くのにガウディの協力者であった建築家のカナレッタが図面のパティオに当たる部分に潜り込んでパティオ側の線を引いていたというエピソードも残っている。
ガウディがサグラダ・ファミリア教会で施工する手法と同じ手法を取り入れながら作業していたことがここからも想像がつく。

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この記事を書いた人

実測家、建築家・工学博士

バルセロナに住みながらガウディ建築物の実測とその図面化を行う。特にサグラダファミリアの実測図 (1/50 の断面アイソメ図)には5年、グエル公園の全体立面図には8年の年月を要した。実測の過程で、ガウディ建築に込められたデザイン・構造・神話、さらに地域性やアイデンティティを縦横に読み解いていく。その他、研究を生かして1998年からユネスコ・フォーラムの招請を受けてベラクルスのサン・ホワン・デ・ウルワ城塞修復計画ワークショップをする。以来、全国において、ガウディ、実測、 歴史、コード、作図についての説明を60回以上の展示会・講演会、まちづくりワークショップ活動と共に進めて現在に至る。特にガウディの煉瓦構造とその素材を生かした応用として北海道江別市のモニュメントBT1をはじめとして、ガウディの生誕の町リウドムスでのアルブレ広場では日本とスペインの特性を生かした改修計画、ガウディのデザイン手法を生かした東京都府中市の北山幼稚園のデザイン・設計施工を手がけた。2015年にはバルセロナ建築士会での田中裕也の作図展やサロンデマンガの作図展、続いて2016年には、初めて銀座の渋谷画廊にてガウディ建築の作図展を行った。





1952年9月30日北海道稚内市生まれ

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