第51回 カサ・ミラの光と影

ガウディはカサ・ミラの計画について
“最初の計画では、大パティオ周囲に2車線斜路を造って車で各階に登れるようにした(最大傾斜1/10)。この実現には問題があった。斜路がある程度の大きさが必要で、大きな空間(家の面積の2倍を占める)となる。 2番目は中央階段で高い天井が必要である。これによって1階で居室空間が造れたが、これほど大きな家を造る計画を展開するには、面積が不十分であった。
家の建設ではよくあることで、選択し制限し抑制して解決を図る教会とは逆になる。“

とホワン・ベルゴスの会話の中で語っている。
カサ・ミラの計画案はガウディのモダン開幕の裏付けになる一面である。

各階に自家用車で上がる計画というのは、その昔セビージャのヒラルダ鐘楼を馬で上がれるようにとの事で斜路にしたと言われている例がある。それ以外は、数階建ての塔又は建物で、しかも住宅建物上部に馬車で上がるという機能の建物はかなり珍しいことである。ましてや馬車から車に変わる時代にいきなり建物上部に車でアクセスするなどという大胆な発想はガウディだけではないだろうか。
いや、むしろ当時の車という特異性から創作が容易だったのかもしれない。

現在でこそパーキング・タワーは普通の事。それでもマンションの各階に車でアクセスするなどと言う発想は、余程の理由がない限りにはでてきそうにない。
通常は地下または地上に車をまとめる。

それが凡そ100年前に、しかも都心での複合建築計画でそんな計画をするという大胆さは、ガウディの先見性を表現している会話と言える。

ガウディも3度目の計画では地下に駐車場を設けることにしている。それでも、建築物の中に“自動車駐車場”という考えは、ガウディ時代にはまだ馬車が主流で、一挙に車への転換期の時代に早すぎるほどのアイデアであったのだろう。
ガウディにとって地下駐車場という発想は、グエル邸で既に馬舎を設けているほどであるから、発想プロセスとしては十二分に可能性の展開はあり得る。

とは言え、既に自動車界も1900年を境として生産開発がはじまる。
ロールスロイスは1903年から高級車を製作し始めている。
そのようにして馬車から自動車に変わる時代である。
つまりこの時代に建物の入口は、馬車から車用に変わる。
馬車の入口は自動車よりも幅が広く高さも必要である。
しかし当時の車も馬車と同じように座席の位置も高くタイヤも大きい。
そんな時代の面影が建築に表現されるのである。
そんな時代でも、少なくともスペインの建築家達は、ガウディ的なアイデアをもって建築のなかに自動車の駐車場を取り込むと言うようなアイデアは少なかったと言える。当時の建物を見ても駐車場を建物に取り込むというのは殆どありえなかった。

その名残が路上駐車となっている。
そのために現在では都心の建物周辺での路面駐車は許可されているものの、最近ではビル形式または高層住宅の新築において、地下駐車場が必須になってきているのも事実である。

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この記事を書いた人

実測家、建築家・工学博士

バルセロナに住みながらガウディ建築物の実測とその図面化を行う。特にサグラダファミリアの実測図 (1/50 の断面アイソメ図)には5年、グエル公園の全体立面図には8年の年月を要した。実測の過程で、ガウディ建築に込められたデザイン・構造・神話、さらに地域性やアイデンティティを縦横に読み解いていく。その他、研究を生かして1998年からユネスコ・フォーラムの招請を受けてベラクルスのサン・ホワン・デ・ウルワ城塞修復計画ワークショップをする。以来、全国において、ガウディ、実測、 歴史、コード、作図についての説明を60回以上の展示会・講演会、まちづくりワークショップ活動と共に進めて現在に至る。特にガウディの煉瓦構造とその素材を生かした応用として北海道江別市のモニュメントBT1をはじめとして、ガウディの生誕の町リウドムスでのアルブレ広場では日本とスペインの特性を生かした改修計画、ガウディのデザイン手法を生かした東京都府中市の北山幼稚園のデザイン・設計施工を手がけた。2015年にはバルセロナ建築士会での田中裕也の作図展やサロンデマンガの作図展、続いて2016年には、初めて銀座の渋谷画廊にてガウディ建築の作図展を行った。





1952年9月30日北海道稚内市生まれ

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