ガウディの手記を覗くと冒頭に“家について”の話しから始まる。
“実家は祖国である。貸家は移住であり実家は皆の理想である。家族の家とは実家のことである。その意味ではだれもが美しい野原や町を思い出すであろう…。”と綴り始める。
家族への望郷の念は国境を越えての共通項なのだと思わせてくれる一説である。
卒業論文の調査で訪れたヨーロッパ
私は日本の故郷を背にしてスペインの地を初めて踏んだのは、大学3年の終わりだからもうあれから31年になる。その頃はまだ日本でガウディの話は殆ど聞かれなかった。
ヨーロッパの19世紀末運動に関心があった私は、大学4年生前期の卒業論文のデーター作成で現地ヨーロッパを訪ねることにした。
勿論ガウディの作品がバルセロナにあることぐらいの情報はあった。
初めに目にしたのがサグラダ・ファミリア教会。まだ死却の門部分は上部が工事中であった。さっそく薄黒い糸杉の様な塊の誕生の門を見ることにした。
日本で見るような建築概念とはかけ離れている。“何が何だかわからない建築”と瞬間に思った。こんな作品を造るのが建築家の世界なら私は建築家になる夢を棄てようとした程にカルチャーショックを受けてその門の下でしばらく唖然として詳細に魅入っていた。
学生時代の経験だから何が建築なのかもよく理解していたわけではないので視覚によるインパクトは高い絶壁の上に立たされたように鳥肌の立つ思いであった。
他にヨーロッパの19世紀末、近代、現代建築も見学したが印象に残っているのは数えるくらいであった。
中でもガウディとは別にギリシャ建築のアクロポリスのパルテノン神殿の大きさと美しさは今でもしっかりと記憶の底に残っている。ロマンティッシュストラーセのローテンブルクの街や、ローマのコロセウムは日本の狭い建築空間になれていた私には新鮮というよりまるで夢の世界であった。
フランスではヘクトール・ギマールの作品やオギュスト・ペレーの作品、他にコルビジェのロンシャン教会も見た。しかしどこか物足りなさがあったのは何故なのかと今でも思うことがある。
引きずる学生時代のカルチャーショック
そしてバルセロナへ
大学を無事卒業してから大阪の建築事務所に就職できた。3年間の建築実務を終る頃、日本での建築の実体を僅かに垣間見ることができたので、バルセロナのガウディを研究してみようと思えるようになっていた。
それまで貯めたお金を持っての冒険である。
海外での冒険をするには、勿論日本の事もよく知る必要があると考え、大阪から自転車で山陽街道を通って沖縄まで降り、それから日本本土に戻って山陰街道を通って滋賀を抜けて鈴鹿峠を越えた。更に東海道に入り東北道を抜けて北海道の実家である稚内に戻るといった全行程6000km50日間の旅をしてみた。
途中素晴らしい人達に巡り合うことができた。素晴らしい景色や素晴らしい町並みも自分の足で感じることができた。その経験は一生の宝となり自信をもって日本の素晴らしさを海外の人に説明できると思えるようになった。
この小さな冒険は今の自分を支えている原動力になっていることを自覚している。
私の行動を無謀と見る人もいる。しかし夢を実現しようと思ったときから冒険は始まり、因襲的な殻を破るにはその無謀とも思えるパワーが時には必要になると思えるようになった。
勿論説明は必要ない。むしろ成果があって初めて人の行為は証明される。
ガウディ建築の実測は私にとっては冒険である。誰もが一度は挑戦して見ようとしたようだが全て挫折する。中でも経済的問題がその引き金になっている。私の場合も初めからボランティーであることを承知で始めた。
しかしこの世界では指導してくれる先生もいるわけではなく全てが独自の手法ということになる。
ここだけの話しだが私も実は最初から実測をしようだなどとは考えていなかった。その理由は解らないというよりも不可能であるという学生時代のカルチャーショックが尾を引いていた。